聡明さについて

人間の中の聡明な感覚はどこにあるのかな?と思う。

次々にある問題への対処や
普遍性のある過去と未来をつないでいる
永遠のテーマのような
生きるとは何だろう?ということにも
自分らしい答えがあること。

それが聡明ということなのかもしれない。

そして、わたしは思う。

聡明っていうのは自分で作り出すものかと。

自分で聡明さを作るとは
一体どういうことかというと、
それはそれは自分らしい自分を表現しようとするとか
または問題を見ないとか
そういうこととは違って

常に自分の表出する表現の方法を一定にしようとするとか
または時間の問題や空間の問題を認識する感覚を持つとか
そういうことなのかもしれない。

場合によっては、
自分の聡明さは
人の役に立つこともあるし、
役に立たないこともあっていい。

それが自分らしい聡明さだとしたら、
一体それをどのようにゲットするのかを
知ってみるのも1つの楽しさなになるかな。

わたしはそこをずっと究明したように思う。

というのは、聡明になりたいわけではなくて
ただただ「気持ちのいい自分」を捨てられない事情があった。

その事情は人には理解できにくいことで、
かつ人との関係によるもので
たくさんの人にはわかってもらえない
わたしらしさがそこを遠慮するしかないかのような
虚しさを持っていたかもしれない。

それを今日捨てることにしたいと思う。

虚しさってどこにあるのかというと
丹田とか意志とかマインドとか
そういう言葉で言われている
「感情」の1つなのだと思う。

感情というのは
マインドとつながっていくと指針になったり、
丹田とつながっていくと怒りになったり、
意志とつながっていくと強力な自意識になったり、

それはそれは見えない存在としては
とてつもなく自分に指示を与え、
与えらえた自分は、
それに「はい!」と答えていくしかない状況を持つ。

わたしはずっと丹田にある虚しさは
苦しさとばかり思ってきた。

だから、丹田とチャクラの関係も見て来たし、
チャクラを閉じることでそういったことは
解決できると思ってきた。

ところが、この4月からの空気によると
マインドや意志や丹田は不快なことばかりを
確認するものではなく、

丹田には過去の先祖のこともわかるようなへそのうとの関係があるし、
マインドには体と脳と意識の世界観のような
バラついた精神性があるし、
意志には時間と空間の問題を持っている何かがある、

そんなことも理解するようになった。

つまり、全体は1つの世界で埋め尽くされているとした場合、
人は感情をどこかとつなぐと
それが愛とか苦しさとかと同じ想像の産物になるかと思う。

それを「虚しさ」という言葉でいうとしたら、
虚しさの除去は感情を捨てることから。

えっ?でも、感情ってどこにあるんだろう?
と思うかもしれない。

だったら、自分の感情の置き場所を確認するといい。
丹田やマインドや意志に置いているだけではなく、
本当はそれも実際は体の場所を指す方が
よりそこの整理がしやすいため、

丹田としたら
腸なのか副腎なのかを調べてみよう。

マインドとしたら
脳幹や脳梁かまたは脳下垂体を調べてみよう。

意志としたら
肺や心臓の強さによるものか
または脳神経の元になっている
中脳や肺とつながっている罵倒するような言葉を自分に言う
曖昧な言葉も自分に言う間脳を調べてみよう。

ある意味、情報はすばらしい。
ある意味、情報で疲れる。
ある意味、情報は自分を変えることができる。
ある意味、情報により徘徊する自分を捨てることもできる。

わたしは今日の1日をすっごく大切にしてみたいと思う。
あ、きっとこれは丹田かな?

聡明なわたしは、きっとこう言う。

わたしにはわかっているので大丈夫。
すっかり今日の1日は聡明さにあふれる1日。
だから今日の日にすることは聡明な自分であふれることになる。

あ、そうならいいな。

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