静かな海 雲海

静かな海を見ると心が静かになる。
それはわたしだけではなく、
誰でもそうかと思う。

でも、その時、
海との対話をするのか、
または自分との対話をするのか、
そこは人によって違うと思う。

しっかり海との対話をすると
海は言う。

「わたしは今日は静かな1日にしようと思う。
でも、それっていうのは静かな1日は素敵だから。
そう。わたしは静かという言葉が好き。
迷いがないと思うから。
迷いがあるとうるさい感じがする。
でも、迷いがないと本当にしあわせを感じることが
できるような気がする。
わたしは海。
そこはかとない海。
海だからわたしはわたしとしての便利性としては
一度決めたら必ずやるということ。
わたしは海。
わたしの中はすばらしい時間と空間がある。
そのことの中には本当の知りたいことは知ることが
可能だという規定がある。
わたしは海。
わたしは海と山とあるなら、
海というものは
自然界の中でも一番素晴らしいものと思う。
わたしは海。
海の中にある情報は過去。
でも、過去と未来は統合されるから
わたしが海として陸である人間生活の役に立つのが嬉しい。
わたしは海。
海を通して人間は何かを感じ、
何か思い、何かに対する感情を開放する。
わたしは海。
颯爽としたわたしらしさを知る。
わたしは海。
迷いのない海。
わたしは海。
わたしがわたしとして生きるように
人間もそうしたらいい。
わたしは海。
だとしても、わたしはわたしが大好き。
大好きだからわたしはここにいる。
わたしは海。
海は広い。
広いから包み込む力がある。
わたしは海。
海と陸の境は何だろう?
きっと何もない。
気持ちの上で固いか柔らかいかの違い。
わたしは海。
海の中にある情報は素晴らしい。
だから、わたしはここにいる。
そして、それが要らないとしたら
その時、海は人間の役に立たなくなる。
人間は海の情報は要るはず。
なぜなら、海はとっても素敵な情報を持っているから。
海馬というものがあるとしたら、
その海馬というのはわたしから生まれた
脳の一部にある情報。
わたしは海。
だから、海馬はわたしの一部。
わたしは海であり地球。
わたしの思いはない。
だから、海馬の思いもなく、
ただただしっかりした思いを持つとしたら、
迷いなく自分を生きること。
そう。
わたしは海。
ちょっとしたことに迷ったり惑いを感じたら、
わたしに聞くといい。
あなたは知ってる?と。
わたしは言う。
いいえ、知りません!と。
でも、わたしは海。
本当は知っている。
知っているけど、
言うこともあるし、言わないこともある。
なぜなら、海は地球の一部だし、
脳の一部の情報として海情報があるなら、
脳全体として必要なことは言ってみよう。
それがいい。
それが海としてのこれからの役目。
わたしは海。
海という存在だから、
海という言葉はしっかり覚えておいてほしい。
海は海。
わたしは地球。
わたしは脳の一部。
全体が必要ならわたしは動く。」

自分との対話だとわたしは次のように思う。

「わたしが知りたいことはすっかりわかっている。
 でも、わたしはわたしに必要なことのみ
 意識に上らせよう。
 わたしはしっかりした自分を作るために
 今、ここに生きている。
 だから、わたしはわたしとしてしっかり生きるために
 必要なことは海や空などの空気に聞いてみよう。
 そうするとしっかりした自分を作るために
 必要な情報は得られる。
 そう。今は海の静けさとともにいる自分だけど、
 そうじゃない場面もあるかもしれない。
 それでいい。
 それでいい。
 それでいい。
 どこでも自分に聞くことは素晴らしい。
 そして、それを実践するのはもっと素晴らしい。
 だから、感覚として知るのではなく、
 実際に行動することにのみ自分の視点を合わせていよう。」

こんな感じかな。

だとしても、言いたいことは
自分に対する効果あることかな。
だから、自分との対話で
感情のリーディングとか、
指針を持たないリーディングは
やめておいた方がいい。

わたしはそう思う。

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