すごく嬉しいことがありました。

昨日はある方のお宅にお邪魔して
今研究しているケアのやり方の集大成を
やってみました。

毎日の生活の中にあった古い価値観の集合体。

そこにある問題はケアで解決することが
できるのか、できないのか。

わたしはとってもそういったことに興味があります。

捨てるべきものがあるのか、ないのか。

ここまではできるけど、
ここから先はできないようなことって
あるのか、ないのか。

そこにとっても興味があります。

なぜなら人は必ず生まれ変われると信じているから。

そこをはずすとケア者としての
わたしは死を意味してしまいます。

死はわたしにとって安全でかつ
信頼する自分への破壊につながるため、

きっとこうかもしれない!と
思ったらすぐにそれをやってみる。

そうしてやった結果を確認し、
確認をした後にはそこにたどり着いた経緯について
体をはって人にやってみる。

あ、安心ください!
誰にでもやってみることはありません。

必ず信頼する近しいプロテクショナーさんに
お願いしてやってみる。

その時は99パーセントは成功すると
踏んでいます。

99パーセントの成功は
ただの意味のない調べかもしれません。

ま、いいっか!
そこまでしなくても。。。という
諦めにも似たわたしの海馬的発想もあります。

でもやってみることは価値があると
自然発生的に感覚を優先し、
感情はその後にした自分に出会います。

だから、やってみよう!という意志は
必ず人生の変える!という
人生の意義や意味もあると思っています。

ん?こういった意志強固な自分の元には何があるのか?
ということは思ったことはありません。

ただ言えることは
人が好き。
人間が好き。
誰にも冒されない不毛な悲しみは
必ず払拭することが可能なはず。

そこが原点になっているように思います。

もしも、、、
だって、、、

できない理由はいっぱい。
それを超えてわたしは生きようとする意味を
見つけたい。

そう思います。

ますます自然の空気は軽くなります。

だからこそ、妄想は捨てるほうがいい。
妄想は捨てるに値します。

不徳感や不自然な曖昧な思いは
もう捨ててしまうほうがいい。

そういう角度で生きるのは楽しい。

さらには生きようとする人と出会うのも
嬉しい。

最大の効果を生むことではなく、
サラッと人生を生きるコツみたいなことを知って、
それを実践してある程度の効果が出ることも
嬉しいけれども、そこじゃない。

まるで人生には華があるな♪と思う瞬間。
そこにも喜びはない。

単に人の生きようとする姿に
感動を覚える。

一言の言葉。
小さい過去を捨てようと決心する瞬間。

それを感じた時には
素敵なことを見たような、
まるで人生にとっての迷いをなくすかのような
まるで自分を師とあおぐと決めるような
そこにある情報の質のいい自分の顔。

それはたまらなく嬉しい瞬間。

わたしこう思います。。。
と聞くそれは別世界の人のよう。

そして、それが人生を賭けてやってみようとする
過去と未来の整理なの!というような
大きなこととは違い、

たった1つのことに対する
警戒心を捨てたような瞬間。

わたしはそれが一番素敵なことと思います。

人生はこんなにも素敵なものかと思うような
悲劇のヒロインだった自分を捨て、
さいなみを一杯持っている自分もなくし、
サラッとした自画像を持つことになる
ある瞬間。

わたしはそこにいることを
とても嬉しく思います。

その瞬間がいつもあるので
ある程度の迷いや惑いのようなことを
たくさん聞いても何とか耐えうる自分がいる。

相当な気持ちの中での葛藤は
非常に大きな問題を作ると思います。

それは人によるかもしれません。

ケア者は、
まるで聞いた人生は
かつての自分のような
まるで自分がそれを話しているような

そんな気になってしまう他者の発言の中にある
行動や言動の基本的思考パターンがあるとしたら、

それは自分の過去を誘発する。

それは危険。
それはバカバカしい仕事ぶり。

だとしたら、どうする?

愛を注ぐとか愛に執着することによる
考えや感情。

そこを動かさないこと。

そこにある一定のルールを自分が持っているからダメで、
さらにはそこは問題ではないのに、
必死でそこに問題の焦点を当てるから
おかしくなる。

そんなことは百も承知。

でも、やってしまう自分に驚くし、
驚くだけではなく、あ、やってしまった!と
思う。

だから、自分を鎧で固めて
自分が何も感じないようにして
自尊心もないかのようにして
かつての自分は捨てました!という標語を持って
さらには自分を捨てる寸前にいること。

それがケア者としての心構え!

そう思うようになった自然発生的な動き。

それが消えた。
昨日。
そして今日、安全という指針を見つけた。

安全という指針は一体何か?

その指針とは
喜びにあふれる実際の自分は
必ずいるというのではなくて、

食べ物があるとつい手が出てしまうように
人にも思考パターンがあって、
そのパターン化されたものに着目すること。

えっ!と驚くようなことを言う人がいても、
それには動じない。

動じないから動かない。
動かないからスルーすることができ、
サラッとした受け止める力が出る。

受け止めるというのは
愛ではなく、ただ聞き流すこと。

ただ聞き流すことは、素敵なこと。
それができたらすべては大丈夫に思う。

最高の自分を表現しようとするケア者の場合、
どうしても何もかもを聞いて
そこに着目して、
相手に対する同意を示し、
さらにはこうなるといいね!を提示して
何となく疲労した感覚を持つ人にとって
サラッとした自分になってもらおうと共振する。

でも、それをすると困るのは自分。
それはしないと決めよう。

決めたらできる。

サラッとした態度や言動の元にある
自分を動かす秘訣となる
”わたしは何でもできるから大丈夫”という
安心感や安堵感のない、探す自分。

探す必要はない。
何でも表面に出るものがあるから
人は今ここにいる。

それを上手に解体するのは
ケア者の役目。

ケア者は目の前にいる人を
見ていることは少ないような気がする。

自分を見ている。

できるかな?怖くないかな?
大丈夫かな?
捨てようとするものが私にきたら困る!

でも何とかやってあげたい!

そんな幼稚なことでは
ケア者は務まらない。

ただ目の前にいるその人を見よう。

動かざる過去は今目の前の人にある。
だからその人を見よう。

過去も未来もその人の今にある。