わたしの思いの中には自然な愛を謳いたいという気持ちがあります。
というのは、ここで何度も出てきているわたしの長女は
軽度ですが知的障がい者ですため、わたしはいつも
社会から追いやられている人たちに目を向けてきました。

そして、その目は普通の時にも活躍します。

人がたくさん集まった時、
誰か独りぼっちじゃないかな?
何か欲しいみたいだけどわからなくて困っているんじゃないかな?
など、毎日の生活の中でも使います。

目配りとか気配りというのでしょうか?

わたしはまれに腹が立つことがあります。
独りよがりの言葉を聞いた時。

えっ?と思う。
そして、腹が立ちます。
自分のことに関係ない時に、特に。

自分がそこに関与しているのであれば
自分の感情をぶつけることもできますが、
そうじゃなくてただその人の話の時、
そこにわたしは関係ない時、

えっ?と思って、言葉が出なくなります。

そして、あなたは自分はよかったかもしれないけど、
周りの人のことは考えたの?

と聞きたくなります。

そんな時の言い方、難しいので、黙ります。

黙って、そしてずっと腹が立ったままです。
人間性を疑うな!なんて思って。

でも、きっとそれには理由がある。
理由は気の通りがよすぎて自分しか見えていない時に
そんなことが起こるのかもしれません。

自分しかみえていない。

それって、本当にこわいことになると思います。
なるべく人の世界は多くの人で構成されているということを
踏まえて、そして自分の世界観は誰にも認められるものではなく
単なる自分の世界観なので、その世界観は多くの人がいる時は
あまり表に出さない方がいいとわかるといいと思います。

そういえば、オタクという言葉もありますね。

10年以上前は、わたしも子どもの1人が友達に
”母はオタクだから。。。”と言っているのを
聞いたことがあります。ビックリしました。

今思うと、その時はオタクだったかもしれません。

いつも世の中は切磋琢磨しながら生きるもの。
だから、ある設定を自分にしようとすると
その途中はオタクになることもあると思います。

でも、自分しかみえていないそれが感情だとしたら、
そこにはやはり腹が立ちます。

現実は平等ではないことが多い社会です。
でも、人間は誰が偉いとか誰が尊いとか
そんなことはない。

みんな同じです。

ただただ生まれた時の母の胎内での具合が悪い状態だったとしても
それがたまたま因子として大きく外に出たとしても
それは案外その人が持つ運命としか言えないように思います。

だから、その運命をしっかり気持ちよく認めて
それはそれとして受け入れ、
サラッとした自分になって生活すること。

それが平等。
それが自分を知ること。
自分にとって大切な人との対話ができる方法。
それによる人との対話から生まれる人のやさしさや
不安のない感覚をもらえることで
本当に人にやさしい気持ちをもらって
明るい気持ちになるのかなあと思います。

それぞれに原因があり理由がある。
そこを超えて何ができるかというと
なるべく自分の領域は広げておく方がいいと思います。

領域は、自然な愛があると広がると思います。
自分に捉われないこと。
自分に人を寄り添わせないこと。

自分の行動で誰かが気分を悪くするなど
考えることができる範囲くらいは
周りに気を使いたいものです。

それができるようになるには
感情を整理しましょう。