7つの感覚、そしてもう1つ大切なこと

わたしはかつて心理的なことを想定して話をすることが多かった。
でも、それは言いたいことを言うという枠では
考えられないほど不自由を感じた。

もっと人って大切なことを知る側の人は
それを知りたい人に伝えていいのではないかと思った。

それはどうしたらできるのかな?と思った。

まずは伝える側の方はスタンスとして
不信感や不快感をなくす作業が必要かな?って思った。

色眼鏡でものを言うことはたやすいけれど、
相手がそれを聞く耳を持っているか持っていないかがポイントで、
かつタイミングもあるし、
じゃあ、話す側は透明な気持ちになっていることは
必須かな、、、と。

それで今の仕事をしている。

人って自分が好きなことか、
または本当に困ったことでそれを克服したか、
またはそこに信頼せざるを得ない答えを見つけたか、

そんな特記事項を持つ時、
それを仕事にしようと思うのではないかな。

わたしはそうだった。

コミュニケーションについて考える時代が長かった。

わたしには軽度の知的障がいの子どもがいます。

その子どもが小さい時の学校でのこと。
その子がちょっとでも何か不安を持った行動をすると、
学校の先生などから「今日のお嬢さんは、、、」と連絡があり、
嫌だった。

そこでコミュニケーションの大切さを感じたと思う。
それまでのわたしは当然のことながら、
普通に自分が言いたいことを言うスタイルだったと思う。

でも、そんなコミュニケーションって
人って拗ねることもあるし、
信頼関係はヒビが入る。

なんてことをわたしが感じたから。

もっと違う言い方ないのかな?
もっと寄り添う気持ちはないなのかな?
自分が楽になるために自分のつらさを親に吐き出しているのかな?

ただでさえ辛い環境の人に
追い打ちをかけるような言葉はNGだな、と思った。

自分がされて、はじめて気が付くこと。

人には絶対にしないぞ!と決めた。

はじめは何を言われても
「そうですか。。。」と聞いていたが、
それはないでしょ!と思うような口調で、
しかもわたしに伝えている内容は
一体何を意味しているのか分からなかった。

現状を伝えたいのか。
または今後どうしましょう?なのか、
それともわたしは困ったのですよ、お母さんどうにかしてください!なのか
よくわからなかった。

そして、思った。

あ~あ、環境によって意味不明な攻撃と感じるような言葉を
浴びることになるのか?と。

まあ、仕方がない。
C’est la vie(セ・ラ・ビ!これが人生さ!)
なんて思って過ごした。

平静ではいられない気持ちを持ち上げる
あきらめにも似た感情の押し殺し。

そして、思った。

わたしもそうだよな、、、
人のことは言ってられない。

わたしは誰にもわかる言葉で話しをしよう。

もし教育ということを考えるのであれば、
もっと精密な感情の動きにも着目した行動が
あるといいかな。

それは自分が自分のことを安心して見ていることが条件。

だから、自分の整理から。
そして自分の整理には7種類のやり方があると思う。

わたしは気持ちよく毎日を生活したい。
日々の生活の中で自由に自分の意見を言いたい。
それでいて聞く人に伝わるようにしたい。

体のシステムを中心とした見解。
心を中心にした見解。
癒されているのかいないのかの感情を中心にした見解。
さらには
思いこみのようなものからの見解。
そして、
他者の管理下に置かれた自分の判断に集中した見解。
摩耗した過去について広く浅い知識からの見解。
さらには
もう少しこうすれば!的発想の未来志向の見解。

野菜を食べることについてこう言う。

ある人は「体にいいから」
ある人は「ホッとする」
ある人は「しあわせ感を感じる」
ある人は「しっかり食べるといいらしい」
ある人は「野菜好きな人と思ってもらえる」
ある人は「食べると体にいいらしい」
ある人は 「きっとこれで今日は元気になるぞ!」

何らかの自分の表現をする。
それはそれはとても自分の性格と過去の表現の中で
どれが自分にしっくりくるかを探りながら
模倣することもあると思う。

どれもわかる。

でも、全体を感じたい!

それは、わたしにとって
脳とエネルギーと体がつながった世界だった。

そこが一番しっくりくる。

そこだとこうなるかな。

「野菜は元気の素。適量食べるといい。
さらに酵素もあるからいい。」

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