令和発動の日

今から数年前、わたしは自分のことに対して
いらない気持ちがあるような気がすると思い、
俯瞰する自分を築いた。

そして、そこからのわたしの存在は
もしかして人との距離をおいていたかもしれない。

なぜなら、自分を確認し、自分をほめ、
自分に対する容量を大きくすることに
精を出したいと思ったからだと思う。

しばらく経ってから
わたしは本気でそこに自分を置くことにした。

結果、しんどいこともなく
うれしい気持ちだけの日々を過ごそうとした。

それはとても素敵なことになった。

普通は色でいうと赤や青や黄色もある中、
わたしは過ごす自分の色は透明だと決めた。

透明になった日、わたしは動いているものを
見ることもできるし、
または動いているものに対する許可をした。

その時のわたしは表情は明るく、
背伸びをしていたかもしれない。

でも、その背伸びの一端は
常に自分を正したいというそれだったかもしれない。

正す。

これがキーワードだったかな。

それが今、少しづつ自分の直感を磨いていく最中に思うのは
正す基準は何だろう?ということ。

その正しさは一体誰に向けているのか?
何を求めているのか?

そこがわからない。

だからこそ、今すこ~し自分のことについて
話すことにした。

毎日の生活の中にあって、
人は、マインドという
他者から入ってきた、
または
どこかで見たフレーズなどで
自分を確立していく。

そのマインドは今はいらないと思う。
というのは、マインドは自分じゃないから。

マインドを自分だとしたら
どこに素晴らしい自分を見つけるかがわからない。
だから、マインドはいらない。

そう思うことにした。

すると、マインドを放棄した自分は
一体何を求めているかというと、

ただただしあわせを感じること。

脳と身体とエネルギーをまとめて
「体」としたとき、

単純に単純に見えないものがどうとか関係なく、
叱咤激励もする自分もいず、
ただただ心身ともに健康で、
かつ、いらない感情もなく
平和的な判断ができ
重い十字架のようなものもなく
普通に生きること。

それがいいと思うようになった。

だから、いまこうして生きているんだな!と思う。

まずは今日はここまで。

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