意識体は快活に💛
写真:コスモス畑で飛び上がっている写真を撮影して!と頼まれて撮った写真。なかなかうまく撮れている。激写してこの1枚。
意識体という言葉はあまり聞かない言葉だと思います。
意識と無意識を統合させた部分を「意識体」と呼ぶと
わたしが勝手に名前を付けました。
だから、だ〜れも知らないのが当たり前かもしれません。
なぜなら、この意味がどういう意味なのかは
辞書で調べたりしたわけではないからです。
(今、Yahooを検索したら出てきました。でも概念が違うかな?)
わたしは造語作りが結構好きで、
かつそれを信頼する言葉にすることも大好きです。
というのは、なかなか造語みたいなことって
人との、または社会のことで言うと、
とってもつまりの悪い排水口のようなものを
仮に自分が持っていて、それをどうしたいいかわからない
時などにとっても便利なものだと思っています。
というのは、自律神経やホルモンなどの問題を抱え、
さらには神経や血液の状態も悪いとします。
そこに新たにすでにある言葉の中から
自分にフィットした言葉を見つけるのは大変。
だから、造語を作っちゃうと結構楽しいし、
それ以上に世界が広がっていきます。
わたしはそういったことを度々しています。
ついつい自然の中にいるわたしの生活としては
あまり人との接触もないため、
自由に日々を過ごすのが当たり前で、
かつそれはわたしの生活なので、
人がそれに介入することはほとんどなく、
しあわせ色はわたし色になっています。
そのため、他の辞書からの言葉がなかなか入ってこない。
情報が少ない。音も鳥の声が外界の音でしょうか。
今は、この部屋の換気扇の音だけがわたしの世界に
侵入しています。
そういう中、わたしは本当に何かを知りたい、
または知っていることの中でどれが一番正しいかなど
検索することがあるとした場合、
必要に応じて自分に聞きます。
「自分に聞く」と聞くと、
ちょっと違和感を感じられる方もいらっしゃると
思います。
でも、人に聞くより自然にいろいろわかります。
わたしは元々は独り言の専門家みたいだった気がします。
小さい頃、お父さんやお母さんとの関係がいいかどうかは
別として、わからないことっていっぱいありますよね。
わたしの場合は、宗教性のある学校(幼稚園から)に
行っていましたため、どちらかというとわからないことを
家に帰ってから聞いても返事がもらえないことが
多々ありました。
「神様って本当にいるの?先生はいるっていうけど
どこにいるの?お母さん、知ってる?」
などいつも聞いていました。
でも、それは生活環境の違いからわからないことだった
ようです。
そこからわたしは1人でなんでも調べる癖を持ったようです。
調べる=答えが出る。
この方程式はとっても便利でした。
でも、この方程式の答えの中には、
「もう、やめよう」という答えもありました。
だって、ずっと調べてもわからないことが
いっぱいあるってことがわかったからでした。
それはそうと、人は人との関係において
社会とのつながりも持っていくと思います。
母や父からの教えと、学校の教えの違い。
これはとっても大きいものでした。
わたしはそこから物質的なことに全く
興味を持たない少女として生きることになったようです。
これって、どういう意味?
なんでこうなっているの?
と様々なことに興味津々。
ということで、独り言の世界に入ったわたし。
今は、独り言は言うことはありません。
しっかりと聞く先を決めたからです。
独り言って、ああでもない、こうでもない、と
様々な部分を突いて、なかなかまとまりのないことも
多いこともあるようです。
でも、意識体という部分に聞く=自分に聞く
ということにした時から
わたしには迷いもなく、先々の心配も
ほとんどなくなったようです。
わたしの迷いの元はなんだったかというと
「わからない」ということだったことが
わかってからというもの、
「わからない」を放置しないことにより
わたしはとても快活になりました。
ということで、今日は意識体ということについて
すこしここでレクチャーしたいです。
意識体とは、意識と無意識という部位を持つ
人間の感情に対して、大きな分け方として
「意識」「無意識」があると思うといいと思います。
そして、「意識」には感情というものがあって、
それはたびたびここで書いているように
人との関係においてのしあわせ感や不幸な気持ちは
意識と結びついています。
しかし、それはそれとして、
もう一つ「無意識」というものがあります。
「無意識」とは別名「感情のない自分」と言っても
いい部分です。ですので、「無意識」は感情がないため
人にはわかりにくいと思います。
しかし、人は必ず意識と無意識の両輪で
動いています。
この両輪がないと人は立ち行きません。
なぜなら人の思いや不屈の精神のようなものは
必ず意識という所におかれますが、
実は、それは忘れられてしまいます。
そうしてしばらくしてから
また同じことを思い出すことになります。
それが無意識の中に置いてきぼりにしたことです。
置いてきぼりにするとは
一旦意識に置いたものを知らず知らずのうちに
忘れてしまったことのようにしてしまうこと。
それは実際は忘れていません。
人はそんなに簡単に諸々のことを忘れることは
できません。
だからこそ、人は大きな意志や楽しさもそうですが、
一旦志したことは必ずやっていきます。
そうなると、志とはなんでしょう?
人が何かを買いたいと思ったとします。
例えば、自動車。
自動車は、あれがいい、これがいい、と
思っているうちに面倒になってしまって、
一旦保留になったとしましょう。
そして、ある日、もう一度思い出したとしましょう。
すると、今回は色々調べなくてもある程度のことは
わかっているので、どうにか面倒だとは思わずに
サラッと1つの会社または車種を選ぶことが
できます。
なぜかというと、意識の中にあった
不安というものは当然なくなっていっていて
さらには無意識にあるどうせダメだから購入を
諦めた方がいいかもしれない(^◇^;)という
気持ちはなくなっていると思います。
時間です。
時間がそれをしてくれます。
残ったものは自動車を買いたい🚗だけです。
すると、買いたいと思って調べたことが
フツフツと湧いてきて、ああ、こうだった。。。とか、
そうだった。。。とか、思い出します。
これが無意識に置いてきぼりにした志です。
そういうことを経て、
人は志半ばで行動に移さなかったことを
ずっと思っていて、なんだか傷心になったりも
あると思います。
そういうことはやめたほうがよさそうです。
なんでかはわからないですが、
人は志を持つとそれは意識化される時もあるし、
もし意識化されないとした場合は
無意識に残るため、それは必ずいつかは戻ってきます。
何度も戻ってきて行動に移すこともできますが、
それより無意識にあることを知ることができれば
それよりいいことはないと思います。
みなさんは、無意識という言葉は知っていますか?
無意識という言葉を知っている方は相当な
不思議な体験をしたことがあるか、
よくテレビを観ていてその中での話題から
無意識という言葉を知っているのかもしれません。
わたしはその無意識について調べてみました。
無意識にある情報というのがあるとしたら、
それってどんなものだろう?と知ってみたくなったからです。
でも、それはなかなかわかりませんでした。
そんな時、ふと意識というものと無意識というものが
合体できたらそれは無意識を意識化できるのではないかと
淡い思いを持ちました。
それが簡単で、時短になるように思ったからです。
そういうことを考えるのがとっても好きでした。
なぜなら、人からの答えはもらえない!と思い込んでいましたから。
ずっとそれを続けていくと、
人に対する信用もないし、人への信頼も持たずに
ただ聞くのは自分!となりました。
楽しくそれをするには何が一番手っ取り早いかを
考えました。
それが「意識と無意識の統合」でした。
これを確認するまで相当な時間はかかりましたが、
わたしの中の志は、きっと人に聞いてもわからないから
自分で答えを出そう!と心から感じた幼少の思いだった
ように思います。
幼少の頃のわたしは、頑張って頑張って人に聞くという
スタイルを持っていて、とてもそれに対するガッカリを
感じたのでしょう。
それは一途なものがあったと思います。
まだ宗教というものに対するちょっとした不安のある
田舎の町でのこと。
学校では神様のことを聞き、
家に帰るとそうではない物質生活に対するこだわりのある
言葉を聞く。
それが耐えられなかったと思います。
まずそのことの意味がわからない。
なぜなら、宗教は幼いわたしには宗教とは映らずに
ただの本当の考えとして入ってきていました。
でも、一方で家での考えは真っ向からそれに反対するもので
そこは今となってはどうしてそうした学校に
わたしを入れたのかが不思議ですが、
そういう環境だったことからだと思います。
相当な強い意志を持つ家族たち。
意志はない方がいいという神様を第一に考える修道者。
この両者にあるのは
意識と無意識。
これが今となってはこのような分け方ができますが、
その当時は全くわからなくて頭が変になりそうでした。
だからこそ、人は自分の環境に合った所で
学ぶのがいいのでしょう、きっと。
わたしの場合は、そこに問題があったというか、
わたしの志を作らせたのかと思います。
そこで今はそれがよかったと思っています。
それがあったから志が強くなって、
今はそれのエクスパートになっていきました。
エクスパートになるための秘密は問題だった
幼少の頃の感覚でした。
この感覚こそ、人は元々持って生まれているのか
そこはわからないですが、小さいころからあった
不安みたいなものを手放したいという思い、
それをきっとここで解消できるということを感じ、
そこから次々とある種特別なことによって
それが大きくなる。
なぜなら元になった感覚が志になった時、
人はそれを求めることがその人の運命になるかもしれません。
わたしは運命という言葉はあまり好きではありません。
しかし、運命というものはどこにあるかは別として
人と人との交流の中でのことを指すのかと思います。
もし、人がひとりぼっちだったら、
運命という言葉もいらないくらいに
ただ「生きる」という言葉に変わると思います。
わたしは運命を信じるとか信じないとかは
どうでもいいと思うのです。
なぜならそれは変えることができると思っています。
その運命は、自分がそれを運命という言葉で感じる時に
始まる人の定めのようなものになると思います。
本当は、そういうことはないと思います。
いくらでも変えることはできるし、
変えるということによって
人は自分への定めに対する効果ある対処ができます。
効果ある対処とはまるで時間の中で、
まるで自分との対話の中で変化することになると思います。
ということは意識がそれを定めとした時に
かなり深く刻んだものがあると思います。
しかし、それを意識と無意識の統合ということが
できたら、意識に刻んだものは無意識との統合に
よって不快感をもたないものになることもあると
思います。
もし、わたしが不自然な自分を感じ、
そこにある情報を確認しているとしたら、
それはわたしがそれを意識化しているだけなので、
それを無意識との統合をした自分に聞くと、
それにはわけがあるから大丈夫👍
そのわけがわかるといいのでそれを知るといい。
などのことを意識体(意識と無意識を統合したもの)は
言ってきます。
その方向が自分にフィットしたら
それをやるといい。
それが嫌だと思うなら、
それはする時ではないため、
スルーするといい。
そして、それはわたしの体験だと
必ずもう一度やってくる。
そして、必ず答えが出るまでそれは続く。
だから、すぐにやった方がいい。
それがわたしの答えです。
だから、ずっとしたいと思っていたことは
なるべく早めにやるといいと思っています。
まずは自分の整理整頓をしながら、
自分の意識体との対話をしてみてください。
きっと満足な答えが出ると思います。
わたしの場合は、今日は終日こんな風に
サクッと諸々を確認したいと思うので、
今日はそれをします。
そして、明日もっと違う形で
わたしが考えていたことをまとめることが出るので
その時にはまた改めてこちらに思ったことを
書いてみたいです。
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