颯爽としたマインド

毎日の生活を試行錯誤していた頃、
わたしの中にあった不安という素材。

その素材は、とってもいいものに変化した今、

お父さんやお母さんとの関係や
付属した毎日の生活の中から得た
「問題」という視点で見るわたしの思考パターン。

それらがついに不思議になくなったように思う今日。

ハワイ時間3月11日。

妄想のようなものに対する悲劇的な問題は
すでに昇華されたように思う。

その時、人は何かから開放され、
そして今という時に“ありがとう”と言うのだろう。

ともすれば、人との関係においての遮断的行為。
この行為もその1つだと思う。

なぜなら、人は人との関係において
遮断をせずにいつも自分を相手に合わせたことになる
その時に感情というものが起こるという気がするから。

わたしの場合、仕事がら
常に人に合わせることは当然なのだけれども、
それは一時的な仕事の時間という捉え方ができる。

しかし、それはしあわせという疎外感のない条件があれば
必死で相手に合わせるということもなく
自然にそれはできると思っている。

楽しいことだけではないケアという手法の中にあって、
人と人との接点はどこに置くといいのか。

それをまさぐるようなことをしてきたこれまで。

で、それを今、ここでしっかりと社会との関係とかではなくて
楽しさでもなくて、生きる喜びとするとしよう。

そうすると、人との関係は喜びという接点で
動いていく。

だとしても、もうダメだあ。。。という思いを持っている人が
何かを確認するためのケアを受けたいと言った時、

さて、どうする?

あ、そうですか。と聞くのか、
それはお辛いですね。と聞くのか、

または

そんなに深刻にならなくてもいいじゃないですか!と言うのか、

それはその時相手の方との相性にもよる。

で、わたしは考えた。

色でいうと赤と緑と黄色があるとしたら、
わたしは赤がいいと決めた時もあったし、
緑がいいと思う時もあった。

でも、今、わたしは黄色の自分でいようかと思う。

黄色。

すごく緑色に近い黄色。

最低のことは知る必要があり、
その最低のことから次のステップについて知る必要もあり、
長い間の強い意志をどこに持っていたかもわかる必要があり、
まさに常識の視点はどこから来ているかも確認する必要がある。

それらを同時にできる視点。

その視点をわたしは黄色と決める。

あ、そうだった。

人の思いの中にある情報の質は
常に黄色というものに追いかけられていた。

でも、それから逃げた。

逃げて逃げて、
そうして人は自分色を作る。

自分色。

あなたの自分色は何色ですか?と聞いたとしよう。
すると人は必ず言う。

あ、わたしの好きな色ですか?と。

いや、違う。

好きな色ではない。
自分色を知りたい。

えっ?自分色?わからないですね~。。。

そうすると、自分をどこに持っていくのがいいかを
まだ知らないという点では、
本当に必要とする時間と空間をどのように
生きたいのかがわかっていない。

その時、人は思う。

時代は変わっている。
時は変化している。
自分の中にある情報は常に動いている。
だから、人としての生き方や
人間としての生き方について
知ろうとすると、
なかなか難しい。
なぜなら変動するから。

あ、株みたいだな。

でも、全体を見通すと
変動はすぐにわかるとは言えないかもしれないが、
自分色さえ決まっていれば
変動には関係なく、
自分をキープできると思う。

わたしは今の時、
明後日をみるのか、
明日をみるのか、
または今日の1日を見るのかで
自分色を変えることはしないで、
常に自分色をキープすることに専念したい。

それはどうするといいのかというと、
ただただ大脳と大脳新皮質の間にあった
俯瞰する自分を退治していって、
そこから次々と起こるであろう
浮遊するような思いや悲しみの付着した感情も
消していく。

その時、人はあらゆる観点で自分を愛することになる。

何もない自分だから。
何もうつろうことのない自分だから。

は~???といったマインド的発想から来る
人間の摩耗した神経との関係もない。

鬱的発想のような微量の問題を
大きく捉えるマインドの帽子もなくなる。

あ、そうだった!

わたしはわたしが好き。
そして、わたしは自分の表現をしよう。

そう。

わたしがしたかったこと。

それは愛を生きるのではなく、
自分をまっさらにして
全うする毎日を過ごしたかっただけ。
それ以外にない。

わたしには愛という存在が
わたしを癒してくれるという認識はない。
なぜならその愛はどこからの愛かわからない。
愛とは、自然発生的な自分を謳歌することなのか、
または
愛とは、自分を放棄することなのか、
それがわかったら素敵だなあと思う。

愛は、自由であって
愛は、存在を認め
愛は、自分を大切にすること。

その愛は、今ここにある。
だから、愛を生きることはせず、
ただただ自分を生きることに終始したい。

自分を生きるとは
自然な自分を生きること。
それはたくさんの人生の中にあった
付着した感情を思いっきり捨て去ること。

その方法は?

多分、上手にできると思うから言うとしたら
それは自分の中の大脳と大脳新皮質の統合をすること。

それができたらすべてはいいものに変容する。

わたしは自分を変容させたくて
これまで脳の研究をした。
そして身体症状の解決を急いだ。

結果、すべての問題は脳でもなく身体でもなく
単に心の問題ともいう方がいいのかもしれないが、
そうではなく、
自分を生きようとするその力。

その力は誰にもある。

その力はどこから来るのか?
宇宙からではない。
宇宙の力は元々持っているのがわたしたち人間。
で、それをどのように使うのかがポイント。
それを知ること。

それが最大の今日の方向。

わたしは今の時をハワイという土地で
自分を観察している。

観察はおもしろい。

でも、観察は自分を外から眺めているので、
そこから早く脱出したい。

観察する自分は大脳新皮質かもしれないし、
過去の自分の評価したい自分かもしれない。

すべてを取りやめる今日。

わたしはここまでの道の中で
感謝と感激と感動という
すべての要らない角度の自分を捨てたそこを
しっかり取り戻すことに決めた。

さあ、今日は3月11日。
わたしの中の大きな変革の日。

それを知ることで
人は人を愛することになるのか、
人との接点が見たことのない
楽しさや喜びになるのか、
または霊視的発想とは違うけど、
透けて見えるようになるのか、
それを楽しみにしたい。

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